2023年06月01日

あっちゃんのお野菜時記(5月 筍)

5月30日の午後2時。

『ロッジやまびこ』に、川浪氏がやってきた。
福岡からの仕事の帰りに、立ち寄ってくれた。

開口一番、
「梅雨入りしたみたいですね」

昨日、29日の朝からまとまった冷たい雨が降っていて、すでに田植えを終えた三瀬の稲田は、無数の波紋でゆれている。

5月29日に、九州北部~東海地方の5地域で、梅雨入りしたという。

「もう梅雨入りしたんですね。なんだか早くないですか?」

「そう? だいたいこの時期じゃない?」私が答える。

「いやいや、早いですよ」

川浪氏がスマホで調べたら、平年より6日早いみたいだった。

「そう? いつもこの時期だと思ったけど」

続けて調べてもらったら、2021年が、なんと5月11日頃に梅雨入りしたということで、3年前の感覚があったからかもしれない。

それから、はっきりしたことはいえないけど、佐賀市の平野部と三瀬を比べると、三瀬のほうが雨がよく降るから、もしかすると毎年、三瀬では梅雨のような雨がひと足早く降っているのかもしれない。

「いらっしゃいませ」

雑談をしていると、年配の女性のお客様が入ってきた。

「筍ありますか?」

「筍でしょう。。もう終わったんですよ・・・」

「そうですか・・・」
残念そうに、帰っていく。

「筍終わったのですか?」 川浪氏があらためて訊いた。

「そう。先週まで出していたけど、今週はもう出ない。終わり・・・ さっきの方みたいに、筍だけが目当てのお客様も多いの。だけど、もう大きくなってしまって、無いのよ・・」

「そうなんですね。時期はだいたいいつからいつまでですか?」

筍は4月上旬から5月中旬まで。孟宗竹の筍を掘る。

「じゃあ、先月の取材のときが、4月18日だったと思いますけど、ちょうど出始めていいころだったのですね」

「これは?」 
川浪氏が、棚から袋に入った小ぶりの、茹で筍を手に取った。

「それは、真竹の筍。三瀬のじゃなくて、七山のよ。三瀬は孟宗竹ばかりで、真竹は少ないの」
七山とは、三瀬の西に隣接する富士町の、さらに西隣の村だ。平成の大合併で、いまは唐津市になっている。

「へえ、そうなんですね」

「三瀬の筍の特徴を教えてください」

毎回、そう聞かれるけど、美味しい、という以外になんと表現したらいいのか。三瀬の筍は、平地の筍より断然美味しいというのは間違いない。食べ比べてみたら判るけれど。

「実が締まっていて、柔らかいけど、歯ごたえがある」

かな。

わたしなんか、筍の時期は、毎日筍の煮しめばかり食べている。昆布とかつお節でとった煮しめ汁を継ぎ足し継ぎ足しして煮ている。
毎日食べても飽きない。美味しいのだ。栄養があって健康にもいいし。

「大和の川上や金立の筍も美味しいわよ。けど、三瀬の筍はさらに美味しい」

「どの野菜もそんな風に美味しいって聞きますけど、理由は何ですかね?」

「山の筍でしょう。三瀬は標高が高いのよ。大和町の川上とか、金立とかの筍も美味しいけど、三瀬の筍はさらに美味しい」

「佐賀市の平野からすると、川上とか金立でも十分、山だと思いますけど、やっぱり三瀬は標高が断然高いですものね」

たとえば、富士町の古湯温泉のある古湯地区が標高200メートル。三瀬は標高400メートルだから、2倍はあるのだ。
その違いはかなり大きいと言っていいのかもしれないと思っている。

「前にも言ったことあるけど、里芋、小豆、筍、らっきょう。この4つの作物は、三瀬のは本当に美味しい。他の産地のと違いもわかる」

三瀬推し。思わず、熱が入ってしまった。(笑)

「ところで、茹で筍って、収穫から店に出るまではどんな工程になるのですか?」

「そうね。だいたい、この時期は、毎日夕方に筍掘りに行っているわよ。夫さんがね。皮は山で剥いて、裸にして、家に積んで帰る。そして、すぐに、大鍋で茹でる。薪つかってね」

「薪ですか?」

「そう。薪。薪がいいの。そして、沸騰するでしょう。そしたら、薪の火が自然に消えるまでほったらかし。そのまま朝まで大鍋に入ったまま」

「へえ。鍋から晩のうちには上げないのですね。なんかゆっくりとお湯が冷めていくから、良い感じに茹で上がるイメージありますね」

「そうそう。たぶん、そういう作用はあると思う。そして、朝、お湯から上げて、今度は、井戸水にさらして冷やす。しっかり冷やす」

「井戸水にさらすんですか。それも、なかなか一般の家ではできないですね。水道代がかかるし、、それから?」

「冷やしたら、こんどは、水を切る。これも水をしっかり切る。そして、袋に入れて、お店に出しているのよ」

「じゃあ、お店に並んでいる筍は、前日の夕方に掘ったのですか?」

「そうなるわね。朝掘り、朝茹でで、出すこともあるけど、夕方掘って、一晩茹でたのが、美味しいわよ」

「そうした茹でるまでの
過程は、訊いてみて初めて知ることですね」

「たしかにね。説明したこともないわ (笑)」

「薪で一晩茹でた筍。薪茹でタケノコ。ですね」

「そうね 笑」

川浪氏が、興味を持って聞いてくれたから、私も改めて考えてみることになったけど、普段の生活上の工夫で、夕方掘って、薪で一晩茹でているだけだけど、それも美味しさを引き出している要因になっているといえるだろうな。

今年はもう、三瀬の筍は終わったけど、この記事を読んで、筍食べたいと思ってくださった方、ぜひ来年4月に、三瀬の筍を買いに来てくださいね。

薪を使って大釜で茹でている筍


山の筍



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2023年5月31日
話し手:川﨑淳子(三瀬在住の農家)
文:川浪秀之
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三瀬のおと(佐賀県三瀬村のコラムやエッセイ)
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Posted by みつせファン  at 08:00あっちゃん

2023年05月10日

神代勝利公にまつわる遺跡など

 三瀬の人にとって戦国時代の一番の英雄はなんといっても神代勝利公でしょう。その居城は三瀬城であり、宿はその城下町です。勝玉神社は無事ですが、昭和38年(1963年)観音寺が焼けたのは残念でした。

 三瀬城は、その昔登ってみた経験から言うと、縄張りは連郭式。曲輪の配置が本丸の目の前に二の丸がある、という形ですが、曲輪自体はさほど大規模ではありません。ただ、関東は土塁主体であるのに対して、関西(九州)らしく石垣がしっかりあるのが特徴かと思います。
 神代勝利公は、龍造寺・鍋島と戦いましたが、その支配圏は尼寺の南にまで及んでいました。元々北部九州の主と言えた少弐を担いでいたわけですが新興勢力の勢いには抗しがたく二回に渡って山内を追い出されましたが、最終的には復帰し、畑瀬に閑居して息子の長良に後を譲り、永禄8年(1565年)、畑瀬城に没しました。彼を葬った宗源院は、嘉瀬川ダムの都合で墓もやや上ったところに移されていますが、当時の佇まいは残っているようです。

 まずこのお墓ですが、宝篋印塔と呼ばれるものです。宝篋印塔は元々中国の呉越国(907~978)の王・銭弘俶が父母の菩提をとむらうために、印度のアショカ王の故事に習って作った八万四千の小塔に由来するとされ、鎌倉以来武士の供養塔などがあります。関東型、関西型があり、時代の変化もあって面白いものです。

 勝利公の場合は、少々細くてさほど豪華版とはいえない、そこがまあ良いところかもしれません。三瀬村内には、これよりも更に中世的かつ立派な宝篋印塔の残欠も見られますが、こちらはやや近世に近い、むしろ近世になって建て替えられたものかもしれません。ただ、小型なのは、その「政敵」であった鍋島直茂と共通する素晴らしさとも言える気がします。
 直茂は、自身の墓を小さなものにするように、ただし、敵・神代一党に向けて作るように遺言しました。今の佐賀市宗智寺の話です。
「日峯様(直茂)御遺言に任せ、多布施御隠居を転じて…寺地御取立あり。……兼て思召入られ候御賢慮の儀は、此の以後若し乱世にも相成り候はば、他国より必ず佐嘉へ人数を差向くべき事ある時に、北山筋の儀至って大切の儀と思召され候。右の所へ御遺骸御納まり御座成され候はば、御家中の者共定めて敵の馬の蹄には懸け申すまじと覚悟致すべく候。多布施より内に敵を入れ立て申さず候はば、佐嘉は持ち堪へ申すべしとの御賢慮にて候由。」と。
 小さな墓でも、神代方に向けておけば、家来は殿さまの墓が蹴とばされては大変だ、と頑張るだろうという「ご賢慮」による、というのです。プロシヤのフリードリッヒ大王の墓も小さく、英雄共通かもしれません。

 そんなわけで、陣内の万福寺には勝利公の孫・千寿丸の墓とか様々な故地があり、先にも書きましたが、私が産まれた家の南側には、小さな池があって、叔母の話しによると、神代勝利公の軍勢が馬に水をやった所とのこと。あちこちで水をあげたのでしょうから、その一つかもしれません。
 さらに、よりアクティブな行動を思わせてくれるのが、大日橋から下ったところにある「よいあんでゃーら(寄合平)」でしょうか。弘治3年(1557年)の金鋪峠の戦いに当たっては、高野岳から大鐘を鳴り響かせて北山諸郷の軍勢がそこに集まり名尾筋、三反田筋に向かったと言われます。

 その他、三瀬にも富士町にもあちこちに城つまりは砦があって、それぞれ興味が持たれますが、私が特に面白いと思うのは、263号線を福岡側に下って右に曲がった所水源地の向かいにある曲渕城です。神代と最後には同盟した曲渕氏の城です。入口には山神社と書いた小さな鳥居が見えるだけですが、ここから上に登るのは、極めて急で大変です。登りきったところに小さな社がありますが、その裏は、どーんと下に落ちています。つまり、いざとなったら渡してある橋を落として避難する仕組みでしょう。上記の通り関西の城は、どちらかというと石垣が多く、三瀬城にも石垣があって感動しますが、こちらの曲淵城では、私は今のところ石垣を見ていません。しかし、その防御施設としての厳しさは、相当なもので、龍造寺隆信もこの道を通って博多を焼き討ちしに行ったという話しですから、色々なドラマがあったのではないかと思います。

 こうして三瀬の「周り」との対比も面白いのではないかと思います。


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2023年5月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
http://hagakurebushido.jp/

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Posted by みつせファン  at 20:00嘉村孝

2023年04月29日

【プレゼント企画告知あり】あっちゃんのお野菜時記(4月 ぜんまい・わらび)

4月中旬、いつものように、川浪氏がロッジやまびこに顔を出した。
「ぜんまい・わらび」について話を聞きたいと、数日前に連絡をもらっていた。

「はい、これ。ぜんまいよ」
ちょうど、村民で今年91歳になる庄島さんが、ぜんまいを採って持ってきてくれていた。

「お、ぜんまい! 大きいですね!」

「そうね。これは大きいよ」

「いやあ、ぜんまいってあんまり見たことなかったですし、こんな大きいぜんまいは初めて見ました」

川浪氏が例のごとく、感嘆の声を上げた。

「子どもの頃に、わらび採りに山に行っていたので、なじみがありますが、ぜんまいは採りに行ったこともなかったですねえ。ぜんまいも生えていたのかな?」

「三瀬でも、わらびと比べたら、ぜんまいはあまり見かけないわよ。だからお店にもあまり出てこないのよね。国産のぜんまいって少ないと思うよ」

私は、沸騰しあお湯で7~8分茹でて、乾燥させた状態のぜんまいを、2種類見せた。それぞれ茹でて2日たったもの、1週間たったくらいの状態のものだ。
1週間経つと、かなり細く、小さくなる。
だいたい、2週間くらい乾燥させたものを、袋に入れてお店に出している。

「山菜の王様」

「え? 何がですか?」

「ぜんまい。ぜんまいは山菜の王様。私はそう思っているの」

まっすぐに伸びている茎(茎なのかどうか)、すらっとした立ち姿、ぐるぐるっと巻いた頭。ターバンを巻いたような。
他の山菜に比べると、なんだか王様のような雰囲気を感じるのだ。

「ぜんまいとわらびは、今が生えている季節ですか?」

「そうね。だいたい4月中旬ごろだけど、今年は4月上旬から出てきた。今年は桜もそうだったけど、なんでも少し季節が早い気がする」
暦どおりに自然の生命が移ろうのではなくて、暦とは関係なく自然の生命は移ろっているのだから、自然の生命に季節の移ろいを感じるのだ。

「ぜんまいってどこになっているんですかね? わらびは、田んぼの畔とか、その辺の野原でも見ることあるじゃないですか。ぜんまいってあんまり見たことがないですから」

「そうよね。林の中の、じめじめしたところのかけ上がりの斜面とか、そんなところに生えているのかな」
私も、こんなところにぜんまいは生えます、という確固たる条件はよくわからない。

「オニゼンマイって知っている?」

「いや、知らないです」

「私たちはオニゼンマイって言っていたのだけど、あたまの部分のぐるぐるが、普通のぜんまいより黄色味があって大きくて、小さく丸くならなくて、そのぐるぐるが徐々に開くのがあるの」

川浪氏は何のことか判らないといった顔だ。

「オニゼンマイが生えると、そのあとに普通のぜんまいが生えるのよ。必ずってわけじゃないけど、だいたい生えるの。そして、そのオニゼンマイの頭の部分が風で飛ぶんで、ほかのところに飛んでいったら、そこにオニゼンマイが生えて、ぜんまいが生えるの。詳しいことはもちろんわからないわよ。でもそんな風に言うわよ」

「へえ、オニゼンマイは食べられるのですか?」

「ううん。オニゼンマイは食べないの。そのあとに生えるぜんまいが、食べるぜんまい」

川浪氏が、オニゼンマイを、スマホで調べた。「あ、ありました。これですか」

「オニゼンマイっては書いてないわね。私たちはオニゼマイって言っていたけど」

「ぜんまいはぜんまいみいたいですね。ここには雌ぜんまいと雄ぜんまいって言い方してありますね。雌ぜんまいは食べられる」

「そうそう。それそれ」

わらびのことは話題に上ることもなく、ぜんまい談議が続いた。

そうこうしているうちに、数組のお客様がロッジやまびこのお店に入ってきた。湧水の水くみ場が、店内にあるので、水くみのお客様も多い。

「そういえば、ゆずごしょう、美味しかったです。なんか今年のゆずこしょうは、去年のより美味しい気がして、すぐ無くなりました。もう2瓶目です」
川浪氏が言った。

「パッケージが変わっただけよ」私は笑って答える。今年のは美味しいという話はほかにも聞いたことがあるのだけれど、パッケージが変わっただけなのだ。やっぱりパッケージデザインの効果ってあるんだなと、実感。

「ゆずこしょう。美味しいですよ。小さな瓶のほうでいいと思いますから、試しに買って食べてみてください。味噌汁に入れたり、うどんやそばに入れて食べたら美味しいです。卵ごはんに入れても美味しいですよ」
川浪氏が、売り子になって、お客様にゆずこしょうを薦めている。

「じゃあ、これ一つ買います」

なんと、売れた。この日、川浪氏が声をかけた二組の方が、ゆずこしょうを買ってくれた。凄い凄い。

「もうすぐ大型連休ですね。そうだ。このブログを見てお店に来た方には、なにかプレゼントしませんか?」

「それいいわね。お店に来てブログを見たと、言ったら、干し梅(100円分くらい)をプレゼントしようか」

「いいですね」

ということで、急遽、大型連休期間中のキャンペーンが決まった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

このブログを読んでくださった方で、
佐賀県三瀬村の「ロッジやまびこ」(三瀬トンネル佐賀側すぐ)に来てくださった方へ、

「ブログを見た」

と言ってくださったら、「あっちゃん特製、干し梅」(100円分くらい)を、プレゼントします。


期間は、4月29日(土)~5月7日(日)まで。数に限りがありますので、無くなり次第、プレゼントは終了します。あらかじめご了承ください。


営業時間は9時~16時です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



佐賀県三瀬村『ロッジやまびこ』の地図♪


ロッジやまびこです^^

明るい店内♪ 三瀬村で採れた野菜、加工品たくさんありますよ

柚子こしょう。パッケージが変わって、さらに売れています!!

店内に、湧水の水くみ場があります!! ※100円寄付をお願いしています。

今月のコラムのテーマ。ぜんまい。山菜の王様。

乾燥したぜんまい。三瀬産。貴重ですよ。売り切れたらゴメンなさい。。



茹でたけのこ!!


山菜コーナー!! かんころ(蒸し大根を干したもの)、干し大根もありますよ♪

私(笑) 大型連休期間中にお店に来てくださいね。待ってま~す。※お店にいないときもあるかも~



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2023年4月29日
話し手:川﨑淳子(三瀬在住の農家)
文:川浪秀之
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Posted by みつせファン  at 07:30あっちゃん

2023年04月15日

北山ダムのヘラブナ釣り~大日橋のハタキ~

4月に入ってすぐのこと。

「そろそろ佐賀県はハタキかな?」

というメッセージが、秋田県潟上市のトガシ釣り具店のトガシさんから届いた。

ハタキ?

もうハタキなの?

11月以降、北山ダムは水位が極端に下がる。いつも釣っていた陸からのヘラ釣りが難しくなってしまい、佐賀平野に無数にあるクリークに釣りの場所を求めていたので、ハタキ、というワードを見て、ちょっと焦りを覚えた。

のんびり構えていたとか、油断していたというわけでもなく、ハタキという言葉自体を忘れてしまっていたのだ。

そういえば、3月中旬にクリークで釣ったへらが、枚数は少なかったけども、どれも尺ちかくあり、お腹がパンパンに膨れていたのを思い出した。

もしかして、あれもハタキの最中だからかな?

そんなことを考えながら、近々北山ダムに様子を見に行こうと思った。

数日後(4月上旬)、北山ダム近くの産直販売店〈まっちゃん>からほど近い、陣の内ワンドに行ってみた。ワンドが、2月に見たときは砂利と砂の岸が丸出しになって川状になっていたのに、目の前の深い青緑色をした湖面はたっぷりとした水位である。
そして、ぱっと目に入っただけでも4、5人か釣り台を出して、ヘラブナ釣りをしている。

やっぱりハタキの時期なのだ・・・

ということで、それから1週間後、北山ダムに午後から行ってみた。

陣の内ワンドの、去年Kさんと一緒に釣った場所は、2か所ともすでに釣り人が入っていて、新たに入るスペースがなかった。

それならと、別の場所に行ってみようと思い、頭に浮かんだのが<大日橋>だった。

<大日橋>は、乗っ込み、ハタキ時期の好釣り場として、いぜんから何度か聞いたことがあった。また、佐賀新聞で毎年この時期になると、湖岸に咲き群れる菜の花の合間に釣り師が竿を垂らしたり、竿を曲げている写真が掲載され、春の風物詩となっている場所だ。

国道263号沿いにあるセブンイレブンの三叉路を、佐賀方面からだと左に折れて、川沿いに富士町方面へ向かうと、2つの橋がある交差点に行き着く。その橋の一つが大日橋である。

数名の釣り人が、河岸に釣り台を出して竿を振っていた。
僕は大日橋は初めての釣行だったので、どこに入ったらいいか皆目見当がつかない。
公衆トイレ横の駐車スペースに車を停めて、道の上から、橋の上から、釣り場を望んでみる。

大日橋の下、散りかけの桜の下に釣り人が入っていたので、岸まで降りて、その方に近づいて挨拶をした。

「こんにちは」

竿を見ると、9尺くらいの竿を使っている。脳裏で13尺しか持って来なかったことを後悔する。

ハリに餌を付けている手を止めて、振り返ってくれた。
「こんにちは」

「横に、入って釣っていいですか?」

「いいですよ。あの辺がいいですよ。枝が倒れているところあたり」

と20メートルくらい先を指さして教えてくださった。

僕は礼をいうと、釣り台と道具を持って、教えてもらったところあたりで釣り台を出した。

やっぱり13尺だと長いんだ。

ハタキのときは、産卵のために草むらがある浅瀬にくるわけだから、短竿で良いというのを耳にしていたはずなのに、北山ダムの陸釣りだから13尺(丈夫なカーボン竿)は必要だろうと思って、それだけしか持参しなかったのだ。
それと、ちょっとだけ、11尺は去年奮発して買い求めた竹竿(中古であるが僕にしてはまあまあ高価な竿)だから、巨ベラが釣れたらどうしよう、という要らぬ心配も・・・これは杞憂に終わるのだれども(笑)

その日は風もほとんどなく、陽光が差して、水面が深い緑色をしていた。最近読んだ釣りのエッセイの本で、笹濁りという言葉を知った。まさに笹濁りの色である。

右手のダム側には、河岸に丈のある草が生い茂っていて、ときおりバシャバシャとへらが暴れている音が聞こえる。産卵しているのだろうか。これがハタキということか、と独り胸の中で合点をした。

ヘラブナが水面に跳ねる音が、あちらこちらから聴こえてきて、鳥のさえずりとともに、心地よく耳を刺激してくれる。たまに、川鵜や白鷺の、ギャーという断末魔のような鳴き声が、山肌にこだまする。

そんな自然環境の中、事前のリサーチもほとんどしないまま、行き当たりばったりで釣りを開始した。

5投目くらいでサワリがあった。ツンと浮子が入ったときにアワせると、乗った。

来た! もう釣れた。

サイズは20センチくらいで、小ぶりのへらだ。

サイズは小さいが、心が躍る。

それからは、餌を投入するとすぐにサワリがあり、アタリも出た。意外にも初心者の僕でも簡単に釣れるではないか。

北山ダムは去年の8月くらいから10月上旬くらいまで、陣の内ワンドで何度か釣ったけども、5枚がやっとという結果に終わっていた。なので、数を釣るのはまだ無理なのかなという印象を抱いたまま、クリークに主戦場を移していたので、こんなに釣れるとは思ってもみなかった。

サイズは20センチ前後がほとんどで、25センチが数枚。泣き尺が1枚だった。

「どうですか? 何枚くらい釣れましたか?」

釣り場に入るときに声をかけた方が、道具を片付けながら訊いてきた。

「はい。20枚くらい釣れました」

3時間のうちで、釣れたのは20枚、スレが20枚、というところだった。
僕としては、へら釣りを始めて、一番釣り上げた日となった。

(秋田のトガシ釣具店さん経営の釣り堀で27枚というのがあるが、それは入れないでおくと)

僕は、その方に訊き返してみた。

「何時から来られているのですか?」

「8時からですよ」

「何枚くらい釣られたのですか?」 釣っている途中、たまに顔を横に向けて、その方の様子を見ていたのだが、見るといつも竿を曲げていた。

「朝8時から来て、250枚」

「え?」

「はい。250枚」

「え? そんなに釣れるのですか?」

「大きいのは来なかったね。数釣りの練習と思って(笑) 」

残念ながら、巨べらを釣り上げることはできなかったけれども、存分に数釣りを楽しむことができた大日橋のへら釣りだった。






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2023年4月15日
川浪秀之(Webプロデューサー、作家)
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Posted by みつせファン  at 23:30川浪秀之

2023年04月10日

神代勝利の出自について

 神代家のいわれについては『神代家伝記』が一般に引かれますが、ここでは、もう少しコンパクトな『北肥戦誌』の記事から拾ってみると。

 そもそも『肥前国風土記』にある景行天皇の行幸に従って、神代の直(あたい)が九州に下向し、現在の久留米あたりに居住して一豪族となります。
 そして、有名なのは元寇の時、「神代民部少輔良忠が代に、文永十一年(1274年)蒙古攻め来たりし時、・・筑後川の渡、水増して、諸國の人馬渡る事を得ず難儀成りしに、彼の良忠が計らいにて假橋を架け、諸勢悉く是を渡しぬ。」という話。現在も筑後川には、鉄の神代橋が架かっているので、この話しはそれほど嘘ではないのかなという気がします。
 南北朝時代の初期、「又其孫神代良基が代に、足利尊氏卿九州御下向ありし時、良基、早速御手に属し、高木・松浦の者共と一つに成り軍功を施しぬ。」と。
 
 そのあと「今の勝利には曾祖父神代入道道元の故大和守勝元が時、文明の末に当たりて少弐屋形政資に属して、食祿を愛く。其子を對馬守利久といふ。入道して宗元と号し、・・・」、この宗元、もとは筑後にいましたが、蒲池、草野、西牟田らの勢力に抗しきれず、神代の地を去り、肥前の千布に移動。
 そこで二人の男子を得ますが、長男は母方の苗字を名乗り福島に。次男新次郎(永正8年・1511年)が家督を継ぎ、若いときは小城の千葉興常に奉公。この頃、家臣に江原石見守という生国武蔵の人がいて、自身の身体が巨大化し、北山を枕に南海に足を浸す夢を見たというので、新次郎はこの夢を金の笄(こうがい)を代価として石見から買い取る。
 そして「其後新次郎、剣術・早業鍛錬するに、一々妙を得ずといふ事なく、後には千葉家を立退き、小城・佐嘉・神崎の山々へ入りて上下をいはず弟子とするに、随い靡く事、風に草木の偃すが如し。

 三瀬山の城主三瀬土佐入道宗利、新次郎が器量を見て、尋常の者ならず大将にもなるべき者よと思ひしかば、三瀬の城へぞ留め置きける。彼の入道の見し如く、新次郎智・仁・勇の三つ備りて、小城・佐嘉・神崎三箇山の輩に、松瀬又三郎宗樂・畑瀬兵部少輔盛政・合瀬因幡守・藤瀬藤左衛門・梅野源太左衛門・杠紀伊守種満・菖蒲遠江守・藤原但馬守・栗並伊賀守・廣瀧新三郎・小副川因幡守・名尾左馬充以下の頭々、悉く家人となる。斯くて新次郎既に大勢となり、大和守勝利と號」し、「其後勝利、太宰少弐冬尙に属し、山内の輩に下知して所々を知行しけり。・・・東西は七里、南北五里、その山々へ城郭を取構う。中にも、三瀬・畑瀬・谷田・熊川・千布の土生島に五箇城を築き、筑前の原田・曲淵・佐嘉の龍造寺と武威を争い合戦す。」と。
 つまりは少弐滅亡後も頑張ったというわけ。

 面白い出自ですが、私の考えるところ、室町から戦国にかけてはこんな風によそから移動してきたり、スカウトされたりという武将が結構いたのではないかと思われます。
 例の徳川家なども、出自はいまいちで、大久保彦左衛門が書いた『三河物語』によれば、その先祖は源義家の流れ。上野国新田郡徳川の郷、今の群馬県太田市尾島即ち徳川(得川)に代々いたので徳川殿という。足利高氏に負けた徳川親氏が時宗の僧侶となり、徳阿弥と称して諸国を流浪。西三河に立ち寄り、松平郷の有徳人の娘の婿となり家督を継ぐ云々。

 神代勝利公の場合は徳川に比べるとよっぽどはっきりしているわけで、やはりよそからスカウトされて三瀬の主になったということは当っているような気がします。今の三瀬にも、よそからたくさんの人が来て、益々発展!と、これはなかなか厳しい現実ですが、頑張りたいものですね。


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2023年4月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
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2023年03月29日

あっちゃんのお野菜時記(3月 大根)

早いもので、今年も三ヶ月が終わろうとしている。
先週くらいから日中は暖かくなってきて、平日でも福岡ナンバーの車の往来が増えた。
三瀬そばの駐車場も満杯で、農産物直売所のまっちゃんも車が多く停まっている。
三瀬の桜も八分咲から満開のところも。
4月1日(土)、2日(日)は花見客が多く訪れることだろう。

「こんにちは」

そろそろ閉店しようと思っていた16時頃、川浪氏がロッジにやってきた。

「いらっしゃい」
今月は大根の話を聞きにくるということだった。
川浪氏が、いつものように、丸太で作った椅子に座ると、ノートを拡げた。

「大根よね?」

「はい。大根です。大根あるんですか?」

「いや、それが・・・」

「無い?」

「うん」

「1月末くらいまでなの」

「え? スーパーにあるのは?」

「下(標高低いところ)はまだあるのよ。あとハウス栽培の」

「収穫はいつからいつまで何ですか?」

「10月上旬から。種を蒔くのは8月のお盆過ぎ」

「生育期間が短いですね」

「そうね」

「大根って種類は」

「青首と白首を作っていて、だいたい青首ばっかりよ」

「青首は煮物に、白首は漬け物に」

「スーパーで僕たちが買うのもだいたい青首ですよね?」

「そうね。青首。形もいいし、白首は細い」

「へえ、あんまり意識して見たことがなかった」

「ここ(やまびこロッジ)では葉っぱ付きで置いているから」

「葉っぱも食べれますからね。お味噌汁に入れて」

「細かく刻んで、油炒め。じゃことか入れて」

「大根って日が経つと水っぽくなりますよね?」

「水っぽくなる? ん~と、しわしわになるのあるよね。でもあれは美味しいのよ。水分は抜けていないから。煮物とかにしたら美味しい。水分が抜けて<す>が出来るのは美味しくない。固くなるし」

「あ、ありますね。固い大根」

「そうだ、これ見て」
私は座ったままで手の届くところにある棚から、ビニール袋に入ったものを手に取って、川浪氏の目の前に置いた。

「かんころよ。わかる?」

「かんころ、わかりますよ。たまに食べますよ」

「こっちは?」

「切干大根」

「かんころと切干大根の違いって判る?」

「あー、もしかしてたまに食べているのは、切干大根かも。かんころは、ずいぶん食べたことないかも」

「かんころは売っているところ少なくなったからね。切干大根はスーパーにあるけど」

「切干大根は、そのまま干したもの。かんころは、蒸してから干したものよ。かんころは、水に戻したときに、戻し汁も使えるからね。煮物とか、あえものとか、サラダとかね。美味しいよ」

かんころは、ひと手間かかるから作る人も少なくなってる。

ロッジやまびこ、温泉前店では、かんころ、切干大根はまだ売っていますよ。

このブログを見た方で、明日から来週にかけて三瀬に来られる方はぜひお店にお立ち寄りくださいね。

かんころ


切り干し大根





(後日、川浪調べ)
かんころという言い方を調べていたら、方言の可能性が・・・
切干大根のことをかんころ、というところもあるようだ。
茹で干し大根というのもある。
三瀬のかんころは、茹でるのではなく、蒸すということだ。
蒸し干し大根ということになろうか。
(ここまで)


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2023年3月28日
話し手:川﨑淳子(三瀬在住の農家)
文:川浪秀之
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Posted by みつせファン  at 20:00あっちゃん

2023年03月11日

脚気地蔵尊のこと

 室町時代のことばかり書いていますと先に進みませんので、この辺りで一旦打ち止めにしたいと思いますが、最後に1つ室町文化の来着について最も重要な意義を有するかと思われる山中の脚気地蔵尊について記してみたいと思います。もちろん、これも私は素人にすぎませんので、正にロマンとしてお読みいただければ嬉しいです。

 縁起書によれば、脚気地蔵尊の勧請は、明徳4年(1393年)、室町時代中期に野田三郎大江家房によってなされたということです。京都では南北朝合一(1392年)がなったすぐあと、足利義満の時代ですね。そして、後に神代勝利公の時代、山野を健脚をもって跋渉し、龍造寺、鍋島の攻撃を翻弄し、ひいては脚気によく効くお地蔵さんということから「脚気地蔵尊」という名前がついたとも言われています。つまり、このお地蔵さんは、武将の尊崇を受けたお地蔵さんだということにもなるでしょう。

 そもそも地蔵信仰は、もちろん古いお経にも登場しますが、特に中国の唐の時代に編まれた『仏説閣羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』という長いお経が重要で、このお経は、人間が亡くなると7日ごとに裁判官の裁判を受けなければならない。その35日目に位置するのが例の閻魔大王で、その閻魔様たち裁判官の裁きを受けるに際し、遺族が7日ごとの裁判の期日、「亡くなった人は決して悪い人ではありません。こんな供物も差し上げます」という裁判の支援、つまり、よいことを追加して応援する「追善供養」を行って、裁判で勝てるようにするのが、七日毎の供養であるという話がでてきたということです。

 この信仰は元々中国で生れたものですから、今現在も中国では、日本と同様7日ごとに供養が行われていたり、あるいはまとめて7人の裁判官の像を前にして遺族が供物を差し上げ供養するという光景があります。
 そんなわけで、死後の裁判は地獄や餓鬼道に落ちかねないとても怖いものでした。しかし、その裁判官は、人間が憎くてそんな裁判をしているのではなくて、よくなってほしいからやっている。即ち、裁判官の本地仏は優しい仏様。特に閻魔様は本地仏としての地蔵尊が姿を変えたもの。だから、生前より地蔵尊を拝んでおけば死後の裁判をうまく処理して頂けるという話になりました。
 特に鎌倉、室町時代には戦がたくさんありましたから、その戦で死ぬことを前提に、生きている内にお地蔵さんを大事にしようということになるわけ。ですから、例えば鎌倉の北の入口で刑場跡ともいわれる建長寺には大きなお地蔵さんのご本尊がありますし、いわば鎌倉中にお地蔵さんがあります。

 この信仰はだんだんと現世を救ってくださるお地蔵さんという話になり、特に戦において効き目がある。例えば、飛んできた矢を拾って、それを侍に渡して次の矢をつがえることができるといった「矢拾い地蔵」や、火攻めにあった時に代わりに真っ黒けになって助けてくださる「黒地蔵」とかという様々な信仰がおきます。三瀬の脚気地蔵尊もそのようなわけで、武将を救うお地蔵さんとして考えられたのだろうと思います。

 私が仕事をしている東京には愛宕山という小山があり愛宕権現が祀られていますが、それは武将が信仰する神仏習合の戦の神です。なので、愛宕山の麓には甲冑を着た勝軍地蔵の像が置いてあります。京都の今の愛宕神社にも本来あったそうです。三瀬の脚気地蔵尊も正にそのような勝軍地蔵の一形態でしょう。

 そしてもう1つのロマン。以前書いたように、この脚気地蔵尊は山中の日向(ひむ)き地区から見ると、東北の、いわば鬼門の鎮守の位置にありますね。ということは、京都で言えば比叡山です。
 その前提で改めて北部九州の山々を考えますと、東から真言宗胎蔵界の象徴彦山、金剛界の宝満山があり、西が天台宗の脊振山とも言われます。関ヶ原の戦いの後、西軍に就いて取り潰されかけたことを取り成してくれた西本願寺の准如門主のご恩に応えて、鍋島勝茂は、山内の天台宗の寺院を浄土真宗に変えた、とも言われます。
 ということは、元々は、金山の登山口にも当る脚気地蔵尊の辺りは、天台・山伏の坊のあとだったかも、あるいは三瀬氏自身がそれと関係があったのかもしれません。明治維新で廃絶してしまった彦山にも、よく似た坊のあとがたくさんあることなどを思い出すと、そんなロマンがうかんできます。


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2023年3月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
http://hagakurebushido.jp/

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2023年03月05日

ゆずこしょうと洋ゴショー

先日、佐賀駅南側にあるコムボックス1階の食品売り場で、三瀬村産のゆずこしょう(柚子胡椒)を買った。
12月に収穫した柚子を使った柚子胡椒が出ていると思ってのことだった。

ラベルが、新しくなっている。そうか、新ラベルの商品が出ているのだ。
夏ごろだったか、ラベルが出来たということで、新ラベルが貼ってある瓶を見せてもらったことがあったのを思い出した。

『ゆずこしょう』と書いてある。
以前のラベルには『柚子とうがらし』と書いてあった。

僕も出席している<三瀬村活性化会議>の会合の席で、柚子を使った商品開発の話になったことがあった。『柚子とうがらし』のラベルデザインを一新するという。

僕はそのとき、
「柚子とうがらしは、柚子胡椒に表現を変えたらどうですか?」 と言ったことがあった。

「どうしてですか? 変えた方が良い理由があるんですか?」という質問が出た。

「『柚子とうがらし』っていう言葉は、一般的に使われていないと思います。皆さん『柚子胡椒』って言っていますよね?」

佐賀、福岡、大分など、地域の名産品として柚子胡椒を売り出しているところは多くある。うどんやみそ汁、おでんに入れたり、刺身や焼き肉にも合う。
焼き肉店やステーキ店でも、薬味の一つとして卓上に柚子胡椒を置いてあるところもあり、「柚子胡椒ありますか?」と言えば、出してくれるところもある。
福岡、佐賀に展開する『人力うどん』というチェーン店では、たしか、20年以上まえから卓に置いてあった。

柚子胡椒の発祥は、大分県の日田や英彦山周辺である説があると、ウィキペディアには書いてある。
いまでは全国的にも柚子胡椒は知られるようになってきたと思う。

話しは戻るが、柚子胡椒は<ゆずごしょう>と「ご」を濁らせたり、<ゆずこしょう>と濁らせずにいったり、それは土地土地でどちらの言い方もあると思うが、柚子とうがらし、という言い方はほとんど聞いたことがなかった。

ラベルを一新するというのなら、そのタイミングで、柚子胡椒に、変えたらどうかと思ったのだ。

たしかに、柚子胡椒と聞くと、知らない人は、胡椒が入っていると思うかもしれない。もうみなさんも知っていると思うが、胡椒ではなく、唐辛子が入っている。
なので、柚子と唐辛子、というのが原材料としては正しいのは正しいのだ。
それをなぜか、唐辛子で作っているにも関わず、北部九州では『柚子胡椒』と言ってしまっているのである。
全国的に販売をするのなら、『柚子とうがらし』の方が判りやすいだろうか、という疑問も出てくる。

しかし、変えた方が良い理由はもう一つあった。

「柚子とうがらし、っていう言葉は、ネットで検索されていないんですよ。その名称は一般的には使われていないと思います」

ちょうどそのころ、<みつせファン>というECサイトの集客施策のために、ネット広告を実施していたときで、ECサイトへの訪問者がどのようなキーワードで検索しているのかが、具体的に判っていた。
柚子胡椒、柚子こしょう、というキーワードで検索しているのが全てで、柚子とうがらし、というキーワードで検索している形跡はなかった。
変えた方が良いという僕の発言は、それを裏付けにしたものだった。

三瀬のゆずこしょう。
瓶の蓋を開けると、柚子の香りが強いのが判る。うどん屋さんにある柚子胡椒とは香りの違いが歴然だ。冷蔵庫に入れていてこないだまで使っていた去年の柚子胡椒は、香りが落ちてしまっていたけれど、新しいのはやっぱり香りが強い。
箸先でちょっとだけ掴んで、味噌汁に入れてみる。
箸で解いて、味噌汁になじませる。
啜る。
美味い。辛さと香りで、味噌汁の味が引き立つ。

さて、唐辛子の薬味についてだが、地域地域で、赤い唐辛子で作ったのを赤ごしょう、青い唐辛子で作ったのを青ごしょう、ということもあるみたいだ。
僕も、多久市の実家では、そう言っていた。
唐辛子なのに、胡椒というのだ。

そこでこういう疑問が出るだろう。じゃあ、粒粒というか、粉の胡椒は何と言っていたのか? と。

答えは・・・

洋ゴショー(洋胡椒) 笑

「洋ゴショー持ってきて!」

ラーメンやちゃんぽんを食べるときには、よくこの言葉が飛び交ったのだった。






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2023年3月5日
川浪秀之(Webプロデューサー、作家)
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Posted by みつせファン  at 23:28川浪秀之

2023年02月26日

あっちゃんのお野菜時記(2月 白菜)

私たちが活動をしてる地場産業の振興分科会は、通称『地場産(じばさん)』と呼ばれている。
三瀬村活性化会議という組織のなかに作られた分科会の一つだ。

三瀬支所の二階会議室で、毎月第2水曜日の午後に三瀬村活性化会議のインターネット活用の会議があっていて、私の話を聞き書きしてくれている川浪氏も出席している。

会議が終わるとすぐに、「あっちゃん、今日このあと、時間ありますか?」と川浪氏。

「ありますよ。今月の野菜は?」

「白菜」

「そうだったね。じゃあ、場所は加工場でいい? 田中さんも一緒に」

「私も? 何の話?」 
私の横に座っている田中正代さん。

田中さんは同年代で、私と同じで『地場産』の副会長をしている。ロッジやまびこ、温泉前直売所、を切り盛りしている仲間の一人だ。

「月に1回、野菜のことを話をして、ブログっていうのに書いてもらっているの。先月は小豆、そのまえは、柚子」

ということで、役場から車で1分~2分くらいのところにある加工場へ移動した。

少しずつ暖かくなっているとはいえ、三瀬は寒い。加工場内の陽の当たるところに椅子を出して、三人で座った。

「白菜は何軒くらいの方が作っていますか?」

「だいたいみんな作っとらすよね?」 私は田中さんにも訊いてみた。

「うん。全員じゃないかもしれんけど、80人のうち50人くらい」

「自分の家だけで食べらすところもあるから。漬け物とか」

「白菜の収穫時期は?」

「10月から2月いっぱい」

「白菜って種撒くんですよね? 種は買うんですか?」

「うちは苗。以前は種から撒きよったけど、虫の付いたり、手間のかかるけん。いまは苗。白菜は難しいのよ~」

「難しいんですか? なんか初めてあっちゃんの口から難しいというのを聞いたような? どういうところが難しいんですか?」

川浪氏が変なところに興味を持ったみたいだ。

「虫の付いたり、葉が巻かなかったり。苗を植える時期とか肥料とか、天候とかでいろいろ変わるから」

「同じ人でも、毎年出来が違ったりするんですか?」

「上手な人は上手よ。でも去年上手にできた人でも、今年出来が悪いといのもあるから」

「へえ、そうなんですね。スーパーの野菜売り場では巻いている白菜しかみないから、巻いていない白菜っていうのが、見たことないんですけど・・・」

「見たことない?」と田中さん。

「案外、多くの人がそうかもしれんよ。見る機会が無いだろうから」

「そうね」 田中さんも納得。

「あとで写真送ってあげるね」 実際に写真でも見てもらった方が早そうだ。






「三瀬の白菜の特徴は?」

「白菜は本当に美味しい! あれ? 三瀬の野菜は何でも美味しいっていうなあって思っているでしょう?」

「いやいや(苦笑)、そんな風には思ってませんが、どう美味しいのか、なぜ美味しいのかをもう少し聞かせてもらいたいなと」

「三瀬の白菜は甘い。なぜって? ここは霜が降りたり、雪が降ったりするでしょう。白菜の上に。それで甘みが増すのよ」

「へえ。それは三瀬の気候特有の効果ですね」

「そうそう」 私と田中さんが同時にうなずいた。

「ところで、白菜の種類って何種類かあるんですか?」

「ありますよ。黄芯とか無双とか、野崎とかね。漬け物には黄芯白菜を使っている。色がいいからね」

「白菜もいろいろな食べ方あると思いますが、どんな食べ方がいいですか?」

「そうね。鍋でも味噌汁でも何でも美味しいからね。豚肉でロール白菜とか。ありきたりだけど。キムチ漬けなんかもね」 

「キムチ漬け美味しそうですね」

そうなのだ。今年はキムチ漬けを作ってみようかなと思っていたところだったのだ。

三瀬の白菜は、冬の三瀬特有の天候に、特になんじんだ野菜なので、雪がほとんど積もらない平野部の白菜との違いがある。今年の白菜はもう終わりだけど、また秋が深まったころに、三瀬に白菜を買いに来てくださいね。


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2023年2月25日
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文:川浪秀之
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Posted by みつせファン  at 12:00あっちゃん

2023年02月10日

室町時代の三瀬の「外との交流」

 前回までに、三瀬村が、中世特に室町時代において大宰府の少弐政資らと深い関わりがあったであろうことを記してみました。そしてその当時、少弐はもとより、ほかにも相当たくさんの人たちがこの三瀬を、行ったり来たりしたのだろうと私は思っています。

 前回は政資の息子高経が富士町の市川で自害したという事にふれましたが、ゆかりの地は三瀬の隣、脊振町の廣瀧にもあるようです。

 すなわち、『北肥戦誌』は、前回引用の箇所に続けて、「高経法名大憧本高と号す。されば(戦国時代末の)文禄の頃とかや。其霊魂、神埼廣瀧山に現れ、様々の不思議多かりしかば、当国の大守より奏聞を遂げられ、則ち正一位を送られて大明神と崇められ給ふ。肥前国境原社是なり。・・・或はいふ、高経、此時㔟福寺の城より出で、廣瀧山へ入り自殺せられしと、非なり。
 神埼山中廣瀧辺は、少弐の領地なる故、其霊現じ神に祟むべき由告げられけるか。」と記しています。

 即ち少弐家は、神埼の勢福寺城、今の城山を根拠地のひとつとしましたが、その北、廣瀧辺りまで勢力に入っていたという事です。そうだとすると、その先の三瀬も当然関わりがあったのではないかと思うわけです。
 そんな山内と少弐勢力との関係を北の方から記したものとして私が挙げたいのが、韓国のハングル文字を作った世宗大王の家来である申叔舟が書いた『海東諸国紀』(1501年完成)です。  

 即ち、同書には、政資の父教頼の「丁亥年、教頼又対馬の兵を以て往きて博多・宰府(太宰府)の間、見月(今の水城)の地に至る。・・・秋七月、対馬島主宗貞国兵を挙げ、教頼の子頼忠(政資)を奉じて往く。沿路の諸酋護送して之を助く。遂に宰府に至り悉く旧境を復す(既述の通り)。頼忠既に宰府に至り、貞国をして博多を守らしむ。
 貞国は身愁未要時に留まり(み、すみよし[住吉]にとどまり・小二殿所管。博多西南半里に在り。民居三百餘戸。)、麾下を遣わして博多を守らしむ。
(ちょうどそのころ)肥前州千葉殿、其の弟と隙有り。小二其の弟を右(たす)け、貞国に命じて往きて之を攻めしむ。貞国之を難ず。小二強いて之を遣わす。大雪に値い、敗れて還る。対馬島の兵千の凍瘃し死する者多し。」と。

 つまり、のちの政資、当時の名・頼忠が、東西に分かれて抗争していた小城の千葉氏の内、弟方を助けるよう家来である対馬の宗貞国に命じたところ、貞国はこれを拒否しましたが、強いて行かされ、山越えをしようとして、大雪にあって敗れて帰った、というわけです。「博多西南半里」の住吉のあたり、つまり今の博多駅の西側から小城を目指したとすれば、博多の別府か荒江あたりから早良街道(263号線)、そして三瀬を通ってのルートが最も有力でしょう。つまり、北側の海外まで続くルートはこれです。

 一方、『海東諸国紀』の中には九州の地図があり、それによると「少弐(二)殿」とか「千葉殿」とか「節度使」とかが出てきます。少弐は既述したとおり本来は太宰府が本拠ですが、上述のとおり脊振山地の南側、神埼、小城、そして佐賀も重要な場所でした。千葉は小城。節度使は、みやき町中原の白虎城を根拠にした足利の探題、渋川です。

 これらのさむらいが筑紫山地の南の麓に蟠踞して、どんな動きをしていたのかというと、例えば千葉殿に関して言うと、「己卯年、遣使来朝す。居は小城に有り。北は博多を距たること十五里、民居一千二百餘戸、正兵五百餘あり。書に、肥前州小城千葉介元胤と称す。歳遣一舡を約す。」とあるわけで、要するにこの武士たちは、原則として、博多から何里という筑紫山地の南に彼らの根拠地を置き、何年かにいっぺん、山越え、博多経由で朝鮮貿易をしているという事が書かれているわけです。
 そうだとすれば、この三瀬は北からにしろ南からにしろ朝鮮貿易の有力なルートという事になり、今の物流と全く同じ話があったというわけでしょう。


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2023年2月10日
嘉村孝
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