2023年12月25日

あっちゃんのお野菜時記(最終回)

先月、11月の某日。
川浪氏からLINE電話があった。

「川浪さん、ずいぶんお久しぶり。どうしてたの?」

「いろいろ忙しくしていまして、、今日、お昼ごろちょっと寄っていいですか?」

「今日のお昼、いいわよ」

7月のコラムを書いてもらったきり、川浪氏からの連絡が途絶えていたから、どうしているだろうかと、ちょっと心配もしていたので、連絡があってホッとした。病気とかそういうので来れなかったわけではなさそうだ。

お昼ごろ、川浪氏が『ロッジやまびこ』にやって来た。いつものビジネススーツじゃなくて、ジャンパーを着こんでいて、足元はスニーカーだ。背にリュックも背負っている。

「寒いですね~。もうストーブ出してあるんですね」 といってストーブに手をかざす。

「その恰好、どうしたの?」

「映像制作のディレクターの仕事が増えて、最近はいつもこんな恰好なんです」

「すいません、7月以降、全然、顔を出さなくなってしまって」

「来ないねーってちょっと心配していたよ」

「お盆すぎてから、ずっと旅行とか出張とか行っていまして、、東北とか、北海道とか、東京、大阪」

「へえ、そうなの。元気にしているならよかった」

「それで、三瀬の野菜のコラムですが、今年で掲載を終了することになりました。いろいろ有難うございました」

 去年の10月から7月まで毎月1回のペースで、私が話したことを川浪氏が聞き書きをしてくれた。文章も書けと言われれば、書けないことはないけれど、川浪氏に話したことを、彼が書いてくれるというから、こちらとしても大変助かったし、有難かった。
三瀬の野菜について、川浪氏から、どうして美味しいんですか? とか、料理の下処理の仕方など、踏み込んだ質問もあったりして、聞かれて初めて明確な文章として伝えることができたこともあった。

「里芋食べる? ちょうど茹でてたところ」

「里芋は、去年10月にスタートしたときの1回目でしたね」

「あ、そうだったね」

 1回目のコラムが里芋だったのを思い出した。

「はいどうぞ」と茹でたての里芋を出すと、

「わあ、里芋? 美味しそう!」 さきほど店に入ってきた常連の女性のお客さんが、横に立った。

「ここに座って、一緒に食べてください」 川浪氏の横に丸太の椅子をだして座ってもらった。




「どこから来られているんですか?」 と川浪氏。

「早良区から。よく来るのよ。毎年らっきょうもここから買っているのよ。毎年予約して」

「今年はぼくも、あっちゃんに教えてもらってらきょう漬け作りました」

 川浪氏と常連客の会話を耳で聞きながら、私はレジに立ってお客様の対応に戻った。

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 今日は、12月25日。
 新年を迎えるための大掃除や買い出しなど、大晦日に向かって慌ただしく一日が一日が過ぎていく。

 今年の三瀬村は、12月に入ってから雪が降る日が多い。
 いまでこそ、国道263号線が整備され車の往来も楽になったけれど、20年まえまでは、まだくねくね道が残っていて、冬の期間は三瀬村に上ってくるにも大変なことが多かった。
 この10年くらいは暖冬の影響もあって、年々雪が降る日も少なくはなってきていたので、 さすがにこの雪の多さは、いくら雪の多い地区だからと言っても、ちょっとこたえる。

 けれども、白銀で覆いつくされた三瀬の冬の景色を見ていると、わたしはなんだかんだといって、三瀬村の、この厳しくても美しい冬も、好きなんだと思う。というか、思うようにしよう。笑
 数日前に、こんもりと降り積もった雪を見たとき、ふとそんなことを思ったのだった。

 このコラムは今月で最終回となりますが、私たちはいつもお店にいます。三瀬に来たときはどうぞお気軽に寄ってくださいね。
 とはいえ、一月、二月は、天気予報や国道の通行状況をしっかり確認して三瀬に来てくださいね^^

『ロッジやまびこ』は、三瀬トンネルの佐賀側すぐのところにある、三角屋根のお店です。

 それでは皆さん、良いお年をお迎えください。またお会いしましょう。



12月25日の三瀬村の様子


12月にこんなにたくさん降り積もった。


レジに立つわたし


一年間、お世話になりました。ありがとうございました。



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2023年12月25日
話し手:川﨑淳子(三瀬在住の農家)
文:川浪秀之
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三瀬のおと(佐賀県三瀬村のコラムやエッセイ)
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Posted by みつせファン  at 21:21あっちゃん

2023年12月10日

(最終回)これからの「農村」三瀬村

(編集部より)

三瀬村出身で東京在住の嘉村孝さんの『三瀬コラム』は今号で連載を終わります。2022年4月から、毎月1本コラムを寄稿していただきました。現在は三瀬にお住まいではなく、定期的に帰省されているだけなのに、三瀬の歴史、史跡などについて、私たちも知らないことを多く書いていただきました。三瀬への深い愛情を感じるコラムでした。編集部一同より御礼申し上げます。ありがとうございました。
 それでは、最終回のコラムをご覧ください。

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『農業政策と農業法制』(竹中久二雄・西山久徳)という、名著があります。

 その本によると、1961年(昭和36年)の農業基本法制定以来、日本は「江戸時代」から「現代」に変わったとされます。つまり、それまでは「江戸時代」だったわけです。

 この基本法は、日本の工業生産の向上に合わせて農業も変わらなければならないという方針から作られたものですが、結局行きづまり、その後新農業基本法に移行したという歴史があります。
 いずれにせよ、確かにこの昭和35、6年頃から、旧海軍工廠であった三重県四日市市には、石油化学コンビナートができ、自然の堆肥を使っていた農業は化学肥料となり、ミカン箱で勉強していたのが段ボールとなり、プラスチックのレジ袋が使われ、という風に日本人の生活様式が世界の趨勢共々すっかり変わってしまいました。

 それ以前は、多くの家が自給自足体制であり、味噌醤油は自分の家で作り、布団の打ち直しや着物の洗い張りは、それができるのが女性の嗜みとされて、当然の役割のように思われ、一種封建的な社会でもあったわけです。
 生家のそばのあったお店は小さな工場のようなもので、毎日、朝からもうもうと湯気を立てて、豆腐をはじめとする様々な食品が作られていただけでなく、ヤギを飼っていたり、牛がいたりで、ヤギが子供を産んだときは、その長いへその緒にびっくりしました。

 そんな世界だったのが、その後米余りが始まって、昭和43年(1968年)からは、いわゆる「総合農政」の時代となりました。
 しかし、そのころまでは、反収を上げなければならないというわけで、山間部である三瀬の場合、一軒でも小さな田んぼが何百枚もあって、「行方不明になった一枚は自分の足の下」などという笑い話しがあったりしたのが、圃場整備・機械化が進み、三瀬も山間部にしては比較的広い田んぼになりました。

 しかし、これらの政策は、当然、人余りをもたらし、都市への人口流出を促すものであり、三瀬村でも、第一次産業が一番多かったのに、その後しばらくしてからは、第三次産業の村になってしまいました。
 現代ともなれば、かつては結婚式もお葬式も全て家でやっていたのが、「セレモニーホール」で行うというのが普通です。もちろん、こうしたことにより女性が開放されたことも間違いありません。

 一方、様々な問題も発生しました。そのような農業は相当な農薬を使用するので、健康問題が発生しますし、現在のように猪が多数出没するという話しや花粉症も皆そうした大きな経済的な流れの結果と言って良いでしょう。
 一方、現代世界で声高に叫ばれている、SDGs、ESGといった問題は、やはりこのような歴史を踏まえなければ、上手くいかないと思います。
例えば先に記した農協にしても、もとはイギリスのロバート・オウエンらに由来するロッチデール公正開拓者組合という、「良いものを少しでも安く、かつ安全に食べよう」ということから始まっています。「共存同栄、相互扶助」です。三瀬村も、そのような人類の歴史を踏まえて動いてきたのであって、村自体が生きた教材として、私たちに汲めども尽きせぬものを提供してくれています。

 ですから、私たちは今後のサステナブルな社会を作るについても、大いに三瀬の歴史を勉強したいものです。それははじめに書いたとおり石器時代や縄文時代につながる長く深いものを蔵しています。また、当然のように周辺や世界との関係を持っています。
 そんな三瀬村の「奥」をもっと極めていきたい、と申し上げ筆をおきます。


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2023年12月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
http://hagakurebushido.jp/

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Posted by みつせファン  at 06:00嘉村孝

2023年11月10日

大正から昭和初期にかけての三瀬の産業組合

 佐賀県の主たる産業が白と黒であるということは、かつて言われたことです。白は米、黒は石炭です。
 三瀬の場合も同じなのですが、ただし、白は米、黒は木炭と言えるでしょう。

 これらを市場で売るについては、常に生産者である農家と購入する側との緊張関係がありました。一般的には買い取る側の米販売者などの力が強く、値段は彼らの意のままで、農家は弱いものです。そこで、国は明治33年、産業組合法という現在の農協、漁協、信用組合そして生協などの基になる、相互扶助をスローガンにする組合つまり共同販売・共同購買などのための法律を作りました。
 そして、三瀬の場合も日露戦争直後の明治40年に徳久昌という先覚者によって産業組合が作られたのです。この徳久さんは、極めて優秀な人で、村長や郡会議員などをした立派な人でした。
 ところが、米の相場に手違いを生じて、それを取り戻すため、有名な新東株というものに手を出し、膨大な欠損を出してしまいました。そのため、組合員は、出資一口当たり120円とかいう損失を負担させられることになり、おまけに無限責任社員であったため、借金を返すために子供を売り飛ばすようなことまで行われてしまったそうです。こうして三瀬村では、昭和初期のいわゆる農業恐慌時代でも、産業組合、今でいう農協がなく、農家は米買い取り人の「言い値」を押し付けられていたのです。

 そんな一方、私の祖父嘉村忠吾は、明治43年、16歳の時1人で台湾に渡り、領事館や製糖会社に勤めて世間に目が開かれていました。現在、台湾最大のボランティア団体である仏教慈済基金会、例の東日本大震災の時、4月6日時点で台湾からの寄付金の3分の1がこの団体からでしたが、その会も、祖父が塩水港製糖北埔農場長時代に三瀬のお地蔵さんを意識して勧請した「地蔵尊」が元になっています。

 それはそれとして、昭和9年(1934年)、時あたかも全国的な産業組合未設置村解消運動が行われた時のこと、祖父は、佐賀県唯一の未設置村であった三瀬村にも産業組合を作ろうという運動を起こしました。もちろんそんな歴史がありますから、破産状態を現出させた産業組合などとんでもないという話しが一般で、誰もお金など預けてくれませんし、妨害工作まで起きました。しかし、祖父は台湾で得たお金を使って、トラックを自ら買い入れ、農家が米を公正な価格で売ることをし、「黒」の方の木炭は市場で競りまで行い、更には里芋の販売事業まで行って、購買事業では、酒や塩の専売権を取ったり、薬などの販売を行いました。こうして、販売と購買とがうまく回るようになって、ようやく信用事業つまりは貯金や貸付も行って欲しいということになったもので、この流れは、祖父が書いた『根に生きて。三瀬村産業組合史』(青潮社)に書かれており、佐賀新聞産業文化功労賞を受賞しています。

 身内のことながら、このことは大正末期から昭和の初めにかけての重要な歴史だと思うので、ここに記させていただきました。
さらにそれが、昭和10年代末、戦争が盛んになるとともに、産業組合が農業会、農会、という形になり、ついには大政翼賛会になって、日本の敗戦に至ったという歴史も忘れてはならない重要なことでしょう。
 いずれにせよ、こうした運動体としての活動が、大正末から昭和初期において行われたことが、その後の三瀬村の産業の発展に寄与していることは間違いないかと思います。

 三瀬小学校のそばには、これまた祖父が設立委員長として建てた忠霊塔がありますが、その前には、先に忠吾が撃剣をやったことを記した寺田清臣さんの顕彰碑(北山カントリークラブの誘致)とともに嘉村忠吾の顕彰碑が建ち、以上の経緯が記されています。昭和初期から戦後の一時期を象徴する三瀬の歴史を示したものともいえるでしょう。ちなみに上記忠霊塔の前では、のちの横綱初代若乃花らの勧進相撲も行われました。

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2023年11月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
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2023年10月10日

明治・大正時代の戦争と三瀬村

 明治時代は、まず明治27年(1894年)に日清戦争がありました。この戦争と三瀬村とは直接私が知ることはないのですが、その10年後の日露戦争、明治37、8年(1904年から)については、三瀬村からも何人もの人が出征して、7名だかの戦死者もあったとのことです。規模的には日清戦争はもちろん日露戦争も、後の戦争に比べればよほど小規模だったわけですが、人口比で言えば、三瀬村は多い戦死者かもしれません。一方、無事に凱旋した人ももちろんあり、私の生まれた今原の杉神社には、凱旋祝いの狛犬が寄進してあります。正に親戚の名前がそこに刻まれていて、いつもそれを見るとじーんと胸に迫るものがあります。

 この日露戦争では、明治37年(1904年)2月9日、朝鮮の仁川沖でロシアのコレーツ、ワリヤーグという二隻の軍艦を日本が沈めたのか攻撃したのがまずは戦争の始まりでした。それで、そのすぐ後、祖父嘉村忠吾の話によりますと、釜頭平(今のシルバーケアの辺りでしょうか)で戦勝祝いがあったそうです。その折のことを祖父は非売品の『忠霊塔』という本にこんな風に書いています。

「この頃、日露戦争の火蓋が切られ、『ああ壮絶、ああ滄海、旅順の港を閉さんと、五艘の船に打ち乗りて…』という広瀬中佐の唱がはやり、戦争が盛んになっていった。明治37年2月8日の緒戦に仁川沖で露艦コレーツ、ワリヤークの二艘が撃沈された。その頃新聞は村内に三部位しか来ず、私達にこの報せが入ったのは3月初め頃であった。4月に入ってから勝祝だ。校庭で松永如助の指導により、竹の骨に紙を張ってコレーツ、ワリヤークと書いた張り子を作り、これを追いかけて釜頭平に行き、火をつけて二艘を撃沈させた。また、宿の野中熊一郎の東の畑には芝居小屋が作られ、戦争芝居が大好評だった。……

 高等4年に上がった時、日本は戦争に勝った。明治39年5月、釜頭平に徳久曹長、中牟田軍曹、古川徳次郎軍曹その他がやって来て、凱旋祝があった。助役の松石庄三郎さんが祝辞挨拶に、『片や日本、片やロシア、行司アメリカルーズベルト、世界一の横綱同志の大角力も立行司ルーズベルトが「此角力余り長引きますので、行司預り、引き分けと致しまする」これが今度の戦争の有様だ。勝った、勝ったと浮かれてばかりは相成らぬ』というようなことを言われた。なるほど、その頃立派な考えを持っておられたものだと感心している。
 祝典の後余興があり、私は合瀬清臣と撃剣をした。ところが、この余興で大騒動がもち上がるとは誰も思いもよらなかったと思う。と言うのは、『福引き』という余興があり、平松の武本某に『夫婦げんか』というのが当たった。人々は景品に何が出るかと息を呑んだところ、牟田口作次校長、徐に壇上より、『夫婦げんかはヌレばよくなる』と、手の平いっぱいにつけておった墨汁を武本の顔に塗ったから、さあ大変。凱旋兵総指揮官の輜重兵曹長徳久岩吉烈火の如く怒り、名誉の軍人の顔に墨を塗るとはけしからぬと騒ぎたてたからたまらない。一同総立ちとなって大騒ぎ。遂に翌日先生達があやまり、事はどうにか収まったが、結局、牟田口校長は職を辞してアメリカへ。大坪喜三訓導先生も転勤した。」
 問題発言をされた校長先生もアメリカへ行かれたとは、なかなか大したものです。

 こんな具合に、まだまだその時代の戦争は規模的にも比較的小さくて、三瀬村の人にはピンとこなかった部分も多かったのではないでしょうか。しかし、その後、第一次大戦には私の父親の父が青島(チンタオ)の攻略戦に出征し、無事にこれまた日本はほとんど苦労することなく、青島を攻略しましたから無事に帰ってきたわけですが、後の第二次大戦以降に比べれば、よほど規模的には小さいものだったのだろうと思います。そうしたことが、かえって後の大戦争を引き起こす一つの遠因になったのかもしれません。そんな意味で、三瀬村の中にも、すでに明治時代からそうした日本の戦争と関わる人々がいたことを覚えておいた方が良いように思います。


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2023年10月10日
嘉村孝
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2023年09月10日

佐賀の乱と三瀬の剣道

 明治維新後の明治7年には、江藤新平や島義勇らを頭首とあおいで、佐賀の士族らによる「佐賀の乱」が起きました。

 この時、三瀬村は、特に三瀬峠や小爪峠、椎葉峠において、明治政府軍との戦いの場になりました。『佐賀征討戦記』(陸軍文庫)に詳しく、仮名垣魯文の書いた『佐賀電信録』は、内容の信頼性はいまいちとの話しですが、「賊徒が樹間から官軍を狙う図」だとか、たしか中鶴の本営の図とかも絵入りで載っていたと思いますし、当然、『大本営日誌』にも登場します。
 私は一時、そんな本を集めていましたが、手持ちの「本の山」の中に隠れてしまったので、引っ張り出さねばならず、よりリアルな表現ができず残念です。

 ともあれ三瀬の士族は、朝倉弾蔵大隊長の指揮の下、佐賀軍に加わり、天険を利し、上から福岡側より登って来る政府軍を迎え撃ち、散々弾の雨を降らせたようです(もっとも鉄砲の数は少なく、いわば神出鬼没で頑張ったのでしょう)。そのことは『頭山満翁正伝』にも載っており、後の玄洋社の仲間達、例えば安川電機の源流に位置する安川敬一郎さん達もその道を登って佐賀軍と戦争したそうですが、何しろ上から下に向けて鉄砲を撃たれるので、負けてしまったということでした。
 しかし、大勢は動かしがたく、佐賀軍は結局敗れてしまったわけです。

 いずれにせよ三瀬村が、そのように佐賀の乱の主要な戦場の一つであったということも、先に述べたモンゴル軍がやってきて柳瀬、一谷あたりで戦争した話しや少弐の家来、対馬の宗貞国らが三瀬越えで小城を攻めようとして凍死した話しと合わせて考えると、いかにこの263号線が重要であったのかが思われます。
 そんなわけで、三瀬は神代勝利公の事跡もあって、尚武の土地として、それを誇りにしてきたのですが、そのことは、明治に入ってからも大いに盛り上がりを見せました。

 私が祖父嘉村忠吾に聞いた話しでは、明治35年の少し前になるでしょうか。佐賀から三瀬にやってきて、宿の肥筑屋に泊っていた人に水戸の東武館の高弟で、千葉周作にもつながる所豊太郎という人がいたそうです。相当な大男だったとのこと。彼は諸国修業の途中佐賀武徳会にいた兄弟弟子の佐々木教士と試合をし、更に、福岡にいた浅野一麻範士と試合を行う途中山越えで立ち寄ったそうです。そして、山中にいた祖父の祖父音成杢兵衛は棒術の達人だったので、所先生と一晩話し合い、三瀬の少年に稽古をつけてくれと頼んだとか。
 その結果、宿の中川民平先生宅を稽古場として、子供たちにしっかり稽古をつけたそうです。

 当時、三瀬小学校には、篠木徳平という佐賀の兵庫から来られた先生がいて、その人も師範学校の主将で戸田流の巻物を納富教雄教士からもらった人。この人が、宿での稽古の様子を見に来て、納富教士以上の人物と折り紙をつけました。
 現に、所先生と篠木先生の二人が立ち会ったところ、先生と弟子程の差があったとの実見した祖父の話しです。いずれにせよ所先生も篠木先生も大したものです。

 こうして、もともと神代勝利公の事跡をしっかりと身に着けていた三瀬の少年達は、ますます剣の道に励んでいくことになったのでしょう。それが北部尚武会に繋がり、納富定清先生らのご努力、江島良介先生のご指導による三瀬中学校の全国一位。更に最近における原口義己県会議長や庄島雅義剣道連盟会長の努力へと、つながってきたのでしょう(もっと功績ある方々もおられると思いますが、とりあえず私の近くにおられた方のお名前を残させていただきました)。

 私の祖父も父もおじたちも皆剣道五段。そこに至るには長い歴史があったことと思われます。



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2023年9月10日
嘉村孝
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Posted by みつせファン  at 11:30嘉村孝

2023年08月11日

洞鳴の滝 悲話

 江戸時代における三瀬村のもう一つの物語として、洞鳴の滝(どうめきのたき)情死悲話は、どうしても取り上げなければいけない話でしょう。

 洞鳴の滝は、皆さんご承知の通り、岸高から井手野に向かう県道を東へ五百メートルほど行ったところにある滝です。昔は今よりももっと高い滝で、道もずっと高いところを走っていたようです。

 この話しには、先にも取り上げた神埼郡の奧山内の長者、藤原村土師の音成六兵衛重任さんという人が登場します。
この重任さんには子供善忠という人がいて、当時十九歳、相当な美少年だったそうです。一方、同じ藤原山の岸高村に田舎には稀な美女、北山小町とも呼ばれたお仙さんという人がいました。何しろ、同じ藤原山の土師と岸高の話しですからごく近いわけで、二人はいつの間にか互いに心惹かれる関係になっていったそうです。

 ある日、善忠さんはただ一人、洞鳴の滝に来て、釣り糸を垂れていました。
 そこに、後ろを通り過ぎようとする人をふと見ると、かねて互いに惹かれあっていたお仙さん。二人は初めてそこで言葉を交わし、楽しいひと時を過ごしたのです。
 そんな二人は、当然ながら結婚を考えねばならないわけなのですが、善忠さんは奥山内の氏の長者の息子さん。今で言えば武家の御曹司ということになるでしょう。お仙さんの方は、庶民の子供。二人は、いわば「なさぬ仲」になってしまいました。
 ところが、父である重任さんはそんな二人の関係にカンカン。善忠さんを呼び出し、二人の離別を厳しく迫りました。そして、しばらくはいわば謹慎の状態にありましたが、ある日の晩、善忠さんはお仙さんの家に行き、二人が結婚できないのならば滝に身を投げて死に、いわば仏国土において思いを遂げようという話しになったのです。延宝9年(1681年)のお正月、二人は洞鳴の滝に身を投げて亡くなりました。

 簡単に言えばそういう話しなのですが、延宝といえば貞享、元禄がこれからやってこようという江戸時代の充実の頃。若い身空で死ぬことはなかったろうにと思います。

 村人は、そんな二人をかわいそうに思い、洞鳴の滝の近くにお仙観音を建てました。興味があるのは、その建てた人は、音成六兵衛重任さん、中野仁右ヱ門さん、芹田弥右ヱ門さん、広瀬六太夫さん、古川五兵衛さん、高島又右ヱ門さん、中川宗右ヱ門さん、徳川織右ヱ門さん等々で、今もその名字が残っている方々のいわばご先祖ということになるでしょう。みんな親戚なのかもしれません。

 話が突然飛びますがこの三瀬村、もともと通婚圏というものが極めて狭くて、同じ三瀬村内、あるいはその隣村が90%以上と角川の『日本地名大辞典』に書いてあったような気がします。従って、三瀬村はそのほとんどが親戚同士。例えば私の祖父の大叔父は、二代目の村長山本文吉になりますが、一方私の祖母は、その文吉さんとは再嫁したお母さんとの関係で実の兄妹ということになります。そんなことを考えていると、本当に村中が親戚なんだなと思われ、にもかかわらず江戸時代は、「身分」というものがあって、やはり窮屈だったんだなと思う次第です。

 もっとも先に書いたとおり、特に中世は遠く四国や関東からまで多くの武士がこの三瀬にやってきたわけで、今の三瀬が積極的に村外の人を受け入れている姿は、その積極性の復活として大事にしていきたい傾向ではないかと思います。

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2023年8月10日
嘉村孝
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2023年07月26日

あっちゃんのお野菜時記(7月 ブルーベリー)

7月の中旬。
梅雨の晴れ間の午後、川浪氏が『ロッジやまびこ』にやってきた。

「らっきょう漬けましたよ。毎日食べてます。美味しいですね」

「結局何で漬けたの?」
先月の取材のときに、自宅でらっきょうを漬けてみると言って、一袋買っていったけど、らっきょう酢は買わずに帰ったと訊いていた。

「伊万里の、まさこさんの万能酢ってあるんですけど、それが家にあったので、それで漬けてみました。しゃきしゃきして歯ごたえがあって美味しいです」

「でしょう!」 三瀬のらっきょうはほんとにおすすめなのだ。

「今月はブルーベリーの話なんですけど、もう出てますか?」

「ありますよ」

ブルーベリーを置いている棚のまえに案内した。
ブルーベリーは7月初旬からだいたい8月末まで採れる。



「三瀬ってブルーベリーの木を自宅に植えている人も多いのですか?」

「そうね。多いかもね」

「理由があるんですかね?」

「三瀬のあちこちで柚子の木が増えたときと同じなのよ。十五年くらいまえに、柚子とブルーベリーを特産品にしようということで、ブルーベリーも産地の見学に行って、苗を植えたのよ」

「ブルーベリー狩りができる農園もありますよね?」

「そうそう。平川さんとか高島さんとか。平川さんはお客さんも多いんじゃないかな」

「平川ブルーベリー園、行ったことあります! コロナの前ですけど。僕は9月に行ったので、もう終わりごろだったんですけど、夏休み期間中はお客様が多かったって聞きました」

「ブルーベリーも、いっぱい種類があるからね。同じようにみえて、ちょっとずつ違うから。わかりやすいのは、丸っこいのと、平べったいのと二つにわけることはできるわよね」

「へえ、そうなんですね。言われてみると、すこし平べったいのとか、まん丸のとか、ありますよね。ところで、あっちゃんの家のブルーベリーはお店に出しているのですか?」

「生のは出していないけど、ジャムにして出してるわよ」

「ブルーベリーは栽培はむずかしいのですか? 手間とかどうなんですか?」

「手間はかからないわね。一年に一回、二月ごろに肥料をやるくらい。でも、鳥がついばみに飛んでくるからね。鳥対策が必要よ。ヒヨドリ」

「ヒヨドリ?」

「そう。ヒヨドリ。ちょうど熟れはじめにやってくるのよ」

「こないだ、小豆のときも鳩に食べられるって言ってましたけど、鳥ってすごいですね。何にでもやってくる」

「ブルーベリーには雀とか鳩とかはこないのよね。ヒヨドリ。あと、ブルーベリーは栽培するのはそんなに手がかからないけど、摘み取るのが大変なのよ」

「そうか。ちまちまと、手がかかりますね」

「摘んですぐのブルーベリーは美味しいからね」

このコラムがブログに掲載されるころは、子どもたちは夏休み真っ最中だ。

三瀬の夏はブルーベリー狩りがおすすめ。ほかにも、ブルーベリーを使ったケーキやパフェなどを出すお店もあるよ。
ぜひ、三瀬のブルーベリー、食べてみてね。

平川ブルーベリー園ホームページ
http://hirakawa-nouen.area9.jp/

私の自宅のブルーベリーの木




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2023年7月26日
話し手:川﨑淳子(三瀬在住の農家)
文:川浪秀之
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2023年07月12日

山本軍助が建てた「鳥獣供養塔」

 戦国時代から江戸初期にかけての三瀬村というと、いくつかの伝説があります。その一つが、山本軍助の鳥獣供養塔にかかわるものです。具体的には、今原の杉神社の鳥居からやや三瀬峠によった東側に山本軍助が建てた鳥獣供養塔が建っています。これは板碑の一種とされているようです。

 本来の板碑と呼ばれる石塔は、鎌倉時代の関東、特に今の埼玉県に始まり、同県に2万基、東京都には1万5000基もあるといわれる石で作った卒塔婆であり、鎌倉武士の移住によって北から南へ、特に佐賀県の場合は吉野ヶ里町の石塔院や、伊万里、また、大宰府などにもたくさんの板碑があります。それらは塔婆ですから三角形の頂上を持ち、その多くに阿弥陀如来がサンスクリットの薬研堀で掘られています。
 それに対して、この三瀬の板碑は、蓋石を頂上に冠するもので、一般的な板碑とは異なり、逆にこの形の板碑が九州の各地にあるそうです。
そして、この板碑にまつわる伝説が面白く、この板碑には、それを裏付ける銘文や線刻画が施されていることも面白いところです。
 その伝説を『三瀬村誌』などから拾ってみます。

 まず山本軍助という人は、元は北面の武士・山本上総守の子孫であり、先祖は安徳天皇とともに九州に下向し、両親は三瀬村の初瀬の里で、薬師如来と猪子大明神にお願いして、漸く生まれた子であるとのこと。
ところが彼は、18歳の時、猪100頭をしとめる誓いを立てたのです。もちろん当時のことですから種子島の銃ということになり、これを抱えて山野を駆け巡りました。
 彼には、妻と母がいたのですが、彼がこの猪狩りを始めると、せっかく生まれた子供が次々と早世してしまい、やっと1人だけ成育するという状態でした。妻や母は「動物を殺めるのはやめなさい」とさんざん言ったのですが、軍助は聞きません。
そして、とうとう50歳の時、99頭までこぎつけました。いよいよ今度は100頭目だというわけで、三瀬の山中、特に山中部落の奥、今でいえば福岡県との境・猟師ケ岩を目指して分け入っていきました。遂に、軍助は大きな猪に出会いました。彼は早速、種子島に弾を込め、猪を撃とうとしたその時、突然猪は白仙の老女に変わり、軍助をじろりとにらみました。
驚いた軍助は ただ一目散に自分の家を目指して帰りました。そして 自宅の上がり框に腰を落とし、呆然としていたところ、居合わせた妻は、半時ばかり前に母がこの世を去ったことを告げました。
 そして亡くなる前、軍助の先祖のことや、軍助が生まれたいきさつ、そして、自分がその体を身代わりとして仏様に捧げ、軍助ら家族が幸せに暮らすことを祈ると言い残して静かに亡くなったというのです。
 軍助は、自分の祖先のことと亥の子大明神の加護による生い立ちのいきさつを知るとともに、自らの一命に変えて殺生を辞めさせようとした母の愛情に感動し、我が無明を嘆きました。そして、長い間 殺生を楽しんだことを反省し、迷いから覚めて、自分の出生を助けてくれた薬師如来と亥の子大明神にお詫びをし、以後殺生を止めることにしました。更に、長谷山観音寺の禅師にお願いして自分が撃ち取った鳥獣の供養をするとともに、鳥、鹿、猪の像を刻んだ鳥獣供養塔を建て、自らの罪を謝したということです。

 それが 慶長17年(1605年) 11月のことでした。この鳥獣供養塔には、18歳から50歳までかけて猟師を行ったことと 慶長17年の建立の日が書かれ、更には、仏様とともに鳥、鹿、猪の線刻が彫られています。

 なかなか貴重な文化財ではないでしょうか。

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2023年7月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
http://hagakurebushido.jp/

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Posted by みつせファン  at 13:30嘉村孝

2023年06月22日

あっちゃんのお野菜時記(6月 らっきょう)

先月の筍の記事が出たときは、筍も終わっていたから、ブログを見てくださった方には申し訳なかったわ。

なので、今月は、もう少し早めに川浪氏が来てくれればいいなあと思っていたのに、今月も、川浪氏がなかなかやって来ない。
いつ来ますか? とLINEで確認をしたら、「いま秋田なんです。。」という返事。

「なんでまた秋田へ?」
「へらぶな釣りに」

なんか去年もそんなことを言っていたっけ。
北山ダムでへらぶな釣りを始めたのは、秋田へ行って、へらぶな釣りをするためだ、とかなんとか。
去年も行って、今年も秋田に行っているなんて。

今月はらっきょうの話をすることになっているけど、うかうかしていると、らっきょうも六月下旬で終わってしまうといのに。

6月19日に川浪氏がやって来た。いつもは三瀬トンネルの佐賀側出口にある、『ロッジやまびこ』のお店に来てもらうけれど、今日は加工場に来てもらった。
加工場は、交番のある交差点の脇にある山道を上ったところにある。

「こんにちは。おじゃまします」

「秋田はどうだった? またへらぶな釣り?」

「ええ・・・仕事もしていますよ。いまは、どこにいてもパソコンで作業したり、オンライン会議したりできますから。へらぶなですか? かなり釣れました^^」

「麹ですか?」

「そう。米麹。袋に詰めているの」

「忙しいときにすみません」

「作業しながらでいい? らっきょうよね」

川浪氏がいつもの、ヨレヨレとした黄色い表紙の大学ノートを開いて、ペンを持った。 

「らっきょうはね。六月末で終わります」

「終わる、っていうのは、穫れない? 出せない?」

「そう。今年は不作で、もうないの」

「え。どのくらい不作だったのですか?」

「だいたい、1000キロくらい出しているのが、今年は200キロくらいじゃないかな」

「かなり少ないですね。。。なんか理由や原因はあるんですか?」

「なんかあるんだろうけど、これといったのはわからないわ。なんかあるから不作なんでしょうけど」

「今日はお店にありますか?」

「今日はあるわよ。出ている。売切れたら次はいつでるか。出たしても、今月末まで。だから、らっきょう買いたいという方は、急いで来てほしいの。毎年、常連のお客様は予約されるから。だいたい6月上旬くらいになると、電話がかかってきて、何キロ予約しますという感じで」

「帰りにお店によって買って帰ります。 らっきょうって酢漬けですよね」

「売っているのは生よ。生といっても、茎がついたままじゃなくて、上下を切って大きさを揃えて、皮を剥いたものを袋に入れてるから。家に帰って、熱湯かけて、水気切って酢に漬けたらいいわよ」

「そうなんですね。酢は、酢だけ?」

「らっきょう酢っていうのがあるから、それを使ったらいいわよ。塩とか砂糖とか入れなくていいから。らっきょう酢だけでOK。とても美味しくできるわよ。おすすめはAコープのらっきょう酢」

「わかりました。家でやってみます。ところで、らっきょうはいつからお店に出るんですか?」

らっきょうは、5月末から出始めて、6月末までと、とても短い。お店のらっきょうも、さっき話したように、予約で売れるし、お店に出したらすぐに売り切れる。

「先月も言われてましたけど、三瀬のらっきょうは、美味しいんですよね?」

「もちろん。そう。三瀬のらっきょうは、平地のらっきょうと全然違って、やわらかい。だけども、歯ごたえ。歯切れがいい。シャキシャキとした歯触り。なんとも表現が難しいけど。とにかく食べてみて欲しい」

「食べてみないとわからないですものね」

「そうよ。家で漬けてみて!!」

といことで、川浪氏が加工場を去っていった。

川浪氏から夜、LINEが来た。『ロッジやまびこ』で買ったらっきょうを、さっそく酢に漬けたという。

三瀬村のらっきょうは、もうすぐ終了しますので、このブログを見て欲しい!!と思った方は、『ロッジやまびこ』にお立ち寄りくださいね。
無駄足にならないように、出かける前に電話で聞いてもいいですよ。




ロッジやまびこ
電話:0952-56-2350 (9時~16時)
https://saga-nouson.jp/spot/market/871/



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2023年6月22日
話し手:川﨑淳子(三瀬在住の農家)
文:川浪秀之
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Posted by みつせファン  at 14:30あっちゃん

2023年06月12日

江戸時代の三瀬村

 前回までは、戦国時代末期の神代家の話しを書きましたが、神代家も長良の代、その子・千寿丸が亡くなったあとは相当にその勢力が衰えました。

 それで、鍋島家からお婿さん(直茂の弟小川武蔵守の子犬法師丸)を迎えて、龍造寺・鍋島と和睦。犬法師丸は神代家良と号し、その後、芦刈に転封された上、最後は川久保に1万石を貰って鍋島のご親類格ということになり、結局のところは三瀬の主ではなくなってしまいました。
ただ、山内と呼ばれる北部佐賀は、鍋島に対する独立心が強く、特に背振(脊振)とともに黒田藩との境でもあったことから、山内刀差五百人と呼ばれる郷士のような人たちが住んでいたようです。

 そのいわれを『葉隠』では、「勝茂公御代までは山内の者ども神代の遺風にて佐賀に不順のことのみこれあり…」とあって、それに困った藩では、鍋島新左衛門種奏の子舎人佐(とねりのすけ)が三反田の代官に補されてさんざん苦心。その結果、「山内の者共親しく罷りなり、後には舎人殿を主人のように取持ち、それより佐賀へも順々申し候。山内に刀さし五百人仰付けられ、鉄砲一挺用意致し罷りあり候」と記されています。

 そして、年初には、藩主が佐賀から大和町の松梅まで出向き、三内の大庄屋に挨拶をし、酒肴を下賜したということでした。
その大庄屋の代表的な一家が、音成六兵衛という人で、この辺りまでくれば、あああそこの音成さんの先祖だな、ということが多くの三瀬の人に浮かんでくるということになります。かくいう私もその流れの一人です。

 しかし、江戸時代の三瀬の「歴史」を示すもっと手軽な史料ということになってくると、なかなかはっきりしたものがありません。例えば、慶長17年(1612年)の山本軍助鳥獣供養塔という石塔が今原の杉神社前にあり、その頃山本軍助さんという人が、猟師としてたくさんの動物をとっていたけれど、最後はそれを供養するためにあの石碑を建てたということがわかります。
あるいは、肥前の国に特有の六地蔵や鳥居、それに狛犬が三瀬村内にもいくつか見られます。こうした史料は、十二分に保存していかなければならないだろうと思いますが、今は、そのあたりの気配りが欠けているような気がします。しっかり保存しておかないと大変です。

 一方、なんといっても、この三瀬の江戸時代は、現在の263号線にあたる街道が福岡と佐賀を結ぶ重要な道路であったということが何にも増して貴重な遺産ではないかと思います。

 例えば、『葉隠』の主人公とも言うべき湛然和尚は、鍋島光茂により、藩主に直訴した、村了という円蔵院の坊さんが死罪に処せされたことに腹をたて、佐賀から松梅を通って福岡の方に行こうとしたところ、松梅でストップをかけられてそこに居つき、現在も湛然和尚の墓が大和町松梅華蔵庵にあり、通天寺にはその木像があるということなどもこの道の重要さを物語ります(下田には石田一鼎の墓もあります)。
幕末の江藤新平、大隈重信らもこの道を通ったことでしょう。それを物語るような旅館のあともあります。

 もちろん、現在のように車がまっすぐ通れるようになったのは、ほんのここ20数年の話しで、それまでは三瀬に車で行くには、神埼経由か北山回りでのバスの場合は2時間もかかったということもありました。本当に三瀬は、自動車時代のはしりにおいては、まさに佐賀のチベットみたいな所だったと思いますが、「歩く」場合、大和の松梅から柚木、向合観音峠を越えて三瀬に入ってきたわけでしょう。私の父の代も、子供の頃は高木瀬の市場に農産物を出すには観音峠で仮眠して高木瀬に向かっていた、ということでした。眠っていると足の先をきつねにつつかれたそうです。

 そんな不便な三瀬村でしたが、現在は全国で佐賀市と福岡市、京都市と大津市、仙台市と山形市が、ただ三つ県庁所在地同士が繋がった場所だということの一つとして、三瀬と福岡とは極めて密接であり、そんな有利な地位を生かしていきたいと思います。

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2023年6月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
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Posted by みつせファン  at 17:30嘉村孝