2023年09月10日

佐賀の乱と三瀬の剣道

 明治維新後の明治7年には、江藤新平や島義勇らを頭首とあおいで、佐賀の士族らによる「佐賀の乱」が起きました。

 この時、三瀬村は、特に三瀬峠や小爪峠、椎葉峠において、明治政府軍との戦いの場になりました。『佐賀征討戦記』(陸軍文庫)に詳しく、仮名垣魯文の書いた『佐賀電信録』は、内容の信頼性はいまいちとの話しですが、「賊徒が樹間から官軍を狙う図」だとか、たしか中鶴の本営の図とかも絵入りで載っていたと思いますし、当然、『大本営日誌』にも登場します。
 私は一時、そんな本を集めていましたが、手持ちの「本の山」の中に隠れてしまったので、引っ張り出さねばならず、よりリアルな表現ができず残念です。

 ともあれ三瀬の士族は、朝倉弾蔵大隊長の指揮の下、佐賀軍に加わり、天険を利し、上から福岡側より登って来る政府軍を迎え撃ち、散々弾の雨を降らせたようです(もっとも鉄砲の数は少なく、いわば神出鬼没で頑張ったのでしょう)。そのことは『頭山満翁正伝』にも載っており、後の玄洋社の仲間達、例えば安川電機の源流に位置する安川敬一郎さん達もその道を登って佐賀軍と戦争したそうですが、何しろ上から下に向けて鉄砲を撃たれるので、負けてしまったということでした。
 しかし、大勢は動かしがたく、佐賀軍は結局敗れてしまったわけです。

 いずれにせよ三瀬村が、そのように佐賀の乱の主要な戦場の一つであったということも、先に述べたモンゴル軍がやってきて柳瀬、一谷あたりで戦争した話しや少弐の家来、対馬の宗貞国らが三瀬越えで小城を攻めようとして凍死した話しと合わせて考えると、いかにこの263号線が重要であったのかが思われます。
 そんなわけで、三瀬は神代勝利公の事跡もあって、尚武の土地として、それを誇りにしてきたのですが、そのことは、明治に入ってからも大いに盛り上がりを見せました。

 私が祖父嘉村忠吾に聞いた話しでは、明治35年の少し前になるでしょうか。佐賀から三瀬にやってきて、宿の肥筑屋に泊っていた人に水戸の東武館の高弟で、千葉周作にもつながる所豊太郎という人がいたそうです。相当な大男だったとのこと。彼は諸国修業の途中佐賀武徳会にいた兄弟弟子の佐々木教士と試合をし、更に、福岡にいた浅野一麻範士と試合を行う途中山越えで立ち寄ったそうです。そして、山中にいた祖父の祖父音成杢兵衛は棒術の達人だったので、所先生と一晩話し合い、三瀬の少年に稽古をつけてくれと頼んだとか。
 その結果、宿の中川民平先生宅を稽古場として、子供たちにしっかり稽古をつけたそうです。

 当時、三瀬小学校には、篠木徳平という佐賀の兵庫から来られた先生がいて、その人も師範学校の主将で戸田流の巻物を納富教雄教士からもらった人。この人が、宿での稽古の様子を見に来て、納富教士以上の人物と折り紙をつけました。
 現に、所先生と篠木先生の二人が立ち会ったところ、先生と弟子程の差があったとの実見した祖父の話しです。いずれにせよ所先生も篠木先生も大したものです。

 こうして、もともと神代勝利公の事跡をしっかりと身に着けていた三瀬の少年達は、ますます剣の道に励んでいくことになったのでしょう。それが北部尚武会に繋がり、納富定清先生らのご努力、江島良介先生のご指導による三瀬中学校の全国一位。更に最近における原口義己県会議長や庄島雅義剣道連盟会長の努力へと、つながってきたのでしょう(もっと功績ある方々もおられると思いますが、とりあえず私の近くにおられた方のお名前を残させていただきました)。

 私の祖父も父もおじたちも皆剣道五段。そこに至るには長い歴史があったことと思われます。



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2023年9月10日
嘉村孝
(三瀬出身。東京で「葉隠フォーラム」という名の歴史学者参加の勉強会を主宰。毎月開催で250回を数える。)
http://hagakurebushido.jp/

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Posted by みつせファン  at 11:30 │嘉村孝